昭和54年11月05日 朝の御理解



 御理解 第67節
 「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。」

 問題は信心が長く続かなければならない。続くというても、ただ続いているというだけではなくて、一段いちだん信心が高められて、進められていかなければならない。ただだらだらと続いておるというだけでは、あまりにも勿体ない。皆さんが日々祈願詞を奏上されます。その中に、「あいよかけよの道ひらけ」というところがありますね。あいよかけよの道ひらけ、又はいかなる時にも、いわゆる「金光大神の道つらぬきて」というところがあります。
 私は、この祈願詞はこの祈願の通りのおかげが現れ、実証していけれると私は、これをここで聞かして頂くたんびに思うのです。はぁあそこも家ではおかげ頂いとるな。あそこも、いやあの全体が合楽の場合は、あの通りのおかげを受けておるなといつも思うんです。だから皆さんもやっぱ、あの祈願詞の通りのおかげを受けなければならんと。ためにはですね、金光大神の道つらぬきて。それはいかなる場合であってもであり、金光大神のいうならば、天地金乃神の願いと言った方がいいでしょう。
 天地金乃神の願いというのは、金光大神にかけられる。そしてそこから、いわゆるあいよかけよの道ひらけという事が、神の願いであるとしなければならん。果たしてあいよかけよの道が開けておるか。お互いがだんだんとおかげを頂きまして、そのただおかげの世界に住まわせて頂いておくというだけではなくて、そのおかげの世界いうならば極楽の世界とも申しましょうか。その娯楽の世界おかげの世界から、そこに私は思い思われるという信心。いわゆるあいよかけよである。
 どういう信心をさせて頂いたら、天地金乃神様の願いに応えまつる。いうなら難儀な氏子が次々と取次ぎ助けられていくような、働きになってくるのであろうか、という事が念願になってこなければならない。そこに私は合楽世界があると思うんです。わがおかげを受けたという世界から神様も一緒に助かって下さる世界、そこにあいよかけよの道立ちてというのはそういう事だと思います。
 今朝私は御心眼に、もう何十段、ずうっと高いこうだんがあって、いわゆる梯子段です。それが下の部屋から光がこう上がっておる。また上の方の部屋からも光がこうやっておりて来ておる。その中間が、だから少し薄暗ぁくなっておるところであった。昇り口のところは明るい。下の部屋に明かりがついとるから、それからだんだんがあまりにも長い。高いもんですから上の方に部屋がある。その上の方からも光がこうやっておりて来ておる。その途中が薄暗ぁところである。
 私はそれを頂いて思うた。ははぁ皆がこの薄暗いところで迷うんだなぁと薄暗いところで、はてこのまま行ったら暗くなりゃせんだろうかと思って、下へおりたりと言った様な事になるのではなかろうか。信心が堂々回りで長う続いておる、というだけではいけないという事なんだ。信心が堂々回りで長う続いておるという事だけではいけない。そこをそれこそ踏み広げるように広げて行ってこそ、初めて繁盛と仰るのだから。
 ところが私共信心させて頂いておりますと、やはりその薄暗い所へ出るんです。いや場合には、昨日の御理解じゃないですけれども、真暗な世界に出るんです。あるんです。そういう時に、いうなら心の光がパッとこうつくようにね。ここの御建築の時には、まぁそりゃ出来ませんでしたけれども、あちらの新館ホールが出来ます時には、もう建築のいろんな約束事が変っておりましたから、電気が消えたらすぐ電気が灯るような仕掛けをしなければならんようになってましたもんね。
 だからどんなに停電になりましても、あの新館の方だけはあの消えると同時にパッと他の電気が点くんです。だからひとつも不自由しません。だからそういう設備がね。自分の心の中にも出来なきゃいけないのです。それこそ金光大神の道、いかなる場合も金光大神の道つらぬきてという事は、そういうおかげを頂いとかんとつらぬかれない、つらぬきにくい、また迷いが起こる。
 昨日は久富勇さんの、一年の式年のお祭りがここでございました。もう亡くなられてもう一年になるんです。皆さんも御承知のようにもう本当に夫婦とも本当に珍しい信心をされました。良い意味での珍しい信心でしたね。皆さんも御承知の通りです。夫婦とも熱心に信心をなさいました。奥さんが亡くなられて三年目には、本人自身が亡くなられた。後にはもう息子が高校を卒業して就職しておりました。それから今みどりさんも高校を卒業して銀行へ勤めてましたでしょうか。
 そりゃなるほど、成程そうでもあろうと思うんですけれども。もう息子の方が信心がなかったものですから、これ程の信心してもう金光様があるかと、また親戚の人達にも、お前どんが金光様にぼうけてしもうてからというふうに、もうわざわざ改式までしてあるのにもかかわらず、また仏式に変えてしまった。先だってから、田主丸の永瀬さんの奥さんが、もう本当にもうまざまざと、勇さんのお夢を頂かれたとこう言う。
 それこそ今日の御理解じゃないけど、だんだんがこうやってある。梯子段の下の方でもう寝ておられてね。もう本当に泣き泣き永瀬さんに訴える様に言われたのはね。私達はおかげを受けておると言われたそうです。けれども残念と言うて男泣きにわんわん泣かれたと言う事です。自分達は御霊としておかげを頂いておる。あれだけの信心ですからその筈ですよね。受けておるけれども後に信心が続かないというか、ならわざわざ改式までして仏式にしてしもうたと言う様な事がです。
 私は残念と言われたのであろうとも、男泣きに泣きながら、そして姿が消える様にして亡くなられたところで、目が覚めたというお届けがございました。その事を私、久富繁雄さんの弟になりますから話して、これはこの頃から一年の一周忌と言うですか、の仏教で沢山兄弟達も集まって御法事があった、というお届けがあっておりましたがね。丁度その前だったかその前後だったですか、永瀬さんがお知らせを頂かれたのはで、その事をみどりさんはあゝして熱心に参って来ますから。
 みどりさんが一人で、まささやかながら思いを込めて、昨日お祭りを奉仕したんです。昨日正奉仕の先生が奉仕しましたから、私はここから御祈念さして頂いとった。そしたらあのうボール紙のようなんであのう鼓を作って、よくあのう鼓がありりますよね。紐をかけて、皆さん知っちゃるでしょう。いわゆる紙で作った鼓ですよ。それをもうグシャグシャにこうやって押し潰しておる所を頂いた。どういう事と思いますか。
 私共が信心をさして頂いて、願い通りになる時には、(   )いうならば初心の時には願えばおかげになる、とそういうおかげは大したおかげじゃない。目先目先のおかげである。もうそれこそ一心に信心をさせて頂いて、それこそ一段と信心が昇って、そのう薄暗いところを通る時であってもです。右と願っても左、左と願っても右と言う様に、こう千鳥掛けのようになっていく。
 鼓のこの紐は千鳥掛けにかかってますよね紐は。そういう千鳥掛けになっていく時こそ、いよいよ神様がままになっておられる時だと言われます。氏子の願いが成就しないけれども、神の願いが成就しておる。いわゆるあいよかけよの働きが、もうここに始まっておるわけですよ。そしてそれがギュッとこう、締め上げられた時にね。いわゆるあの鼓の良い音色が出るのです。それが私が頂いたのは紙の鼓。これはいうならば神様の方にも人間と同じ事だという事です。神様が半分半ば成就した。
 久富一家の上にね。これはね。もうそればってんあんたぁ死んでしまえば、それ迄じゃないのと。もう本当に生きとる間におかげを頂かにゃんと、これは人間私共の浅はかぁな考えなんです。もうそりゃ私共でも分からんです。どういう御都合か実際は分からんのだけども、なら私のところを思うて下さったが一番いいです。もそれこそ大坪さんがおかげ頂きなさらん筈はないと言う様な、しかも一家を挙げて信心さして頂いておったけれども、次々と難儀な事が起こってきた。
 半年の間に兄弟三人のお葬式を、送り出さんならような事が起こってきた。しかももうこれより以上の貧乏はなかろうと言う様な貧乏な、いうならば生活の元になっておった酒屋の配給をしとりましたから、酒の配給も取り上げられた。もうそれこそ一家中の者が路頭に迷うような状態の中にあってです。あれ程信心さっしゃるとにどうした、あげんふの悪いこつばっかり続くじゃろうかというね。しかも取り返しはつきませんよね。死ぬるという事は。
 もし私がもうこういう事なら、神も仏もあるもんかと言うておったら、今日の合楽は生まれてないです。本当にそこんところをです、泣く泣くでも、これは神様がもっと大きなおかげを下さろうとする働きとして、信心を進めて行ったところに、いうならば神様の鼓も立派に鳴り出した。紙の鼓も鳴り出した。その後に人間氏子の鼓も、いうならば現在の合楽で鳴り響くおかげになってきたんです。
 だからいよいよいろんな問題の時にはね。私共が大坪家でおかげを受けてきた、いろんな事を皆さんが知っとられますから、その事を思われたら迷いは起こらんです。どんな場合であっても。そして一段と高めていく以外はないです。これからいうなら人間、神のいうなら神がままになっておる、その次に氏子がままになるという働きが起こって初めて、どういう事になりますか。あいよかけよで立ち行くという道が開けてくる。
 只おかげを頂いて、いかにおかげを頂いて、それは、ま極楽世界に住んだようなおかげを頂いてというても、それではお道の信心にはなりません。いかなるどんな場合でも金光大神の道を立て貫いて、そしてあいよかけよの道開けと言われる、あいよかけよの道が開けなければ、金光教としての本当の助かりはありません。成程人からどうか言われたり、または人から中傷されたり、と言った様な事で迷うような事はない。
 それこそめいめいがです。そこんところを確固たる信心に、信念に立っての、いうならば信心をいよいよ進めていかなければならない。そして私は長う続いた時にです。限りないおかげの進展という事になってくるんです。一段いちだんと信心が進まなきゃならん。一年一年有難うなってくる、というのは一階におった時よりも、二階に上がればもっと有り難くなる。
 二階から三階に上がればもっと、いうならば有り難いものが高められてくる。いうならばどういう事になりますかね。いうなら次元の違った子供と大人の世界のような世界に開けてくるんです。だからこれはどうでも登らなきゃならんのです。だから今日皆さんに聞いて頂いたようなところは、しっかりしとかんとです。登り出した途中で薄暗くなったと言う様な時にです。
 迷いが起こったりするから、また下の方へ降りてから、いうなら同じ一階なら一階だけで堂々回りのおかげに留まってしまうという事になるのです。よく皆んなが申します。私の信心は堂々回りでと、なるほどおかげも堂々回りのようである。だからそうではなくて一段と進む。これは随分こう長い梯子段ですけれども、一段一段上がって行く、いうならば信心、その一段一段上がって行く時にはね。いうなら下の光と上の光が届かないところがある。そして真中に薄暗くなったり暗いところがある。
 そこんところを、いわゆる祈願詞にありますように、どんな事があっても、金光大神の道立て貫くという事になるのじゃないでしょうか。ただ長う続かぬと仰った。長う続いておるというだけではいかん。信心が一段いちだん高められながら、長う続かなければ、おかげもいうならば本当のおかげの世界というか、お徳の世界という事にはならない。いわゆる合楽世界にはならないという事であります。
   どうぞ。